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ガロンボトルビジネス最前線2011 ー「水の世紀」へ突入

ブログを開始して以来、ガロンボトルビジネス最前線は中断していました。ガロンボトルビジネスを囲む環境が大きく変貌していく中、1年間をまとめて書いているようでは「タイムリーなものを書き記すことができない」と考えたからです。しかし、ブログの読者はいつまで経っても増えず、「読んでもらえないものを書き続ける」ことにも、正直言って「疲れてきてしまいました」。ブログ掲載開始当時は、それを書き続けることで「ミネラルウォーター」検索での順位も高くなり、それを維持するためもあって一生懸命書くことに精を出していました。が、少しでもお休みすると、順位は下がる一方となりました。

そこに、3月11日に大震災が起こり、「洗浄充填機」への問い合わせをたくさんいただくこととなりました。その「問い合わせ」に触発され、久々にガロンボトル最前線の最新版を書くこととしました。

2009年に大きな落ち込みを見せた弊社の製造本数は、2010年の前半でも減少に「歯止め」がかからず、減り続けました。後半からは「県内需要の獲得策」がようやく実り、どうにか右肩上がりの曲線を取り戻したのですが、通年では2009年を若干下回ることとなりました。2010年の「夏の猛暑」特需を差し引くと、「その後が気懸かりとなる」という展開でした。この間のRO各社の実質的な落ち込みも激しく、それが「小さなパイ」の争奪戦を過度なものとさせました。「投げ売り的な価格」を提示して、他社の顧客を漁るといった営業が盛んに行われるに至ったのです。そして、「猛暑特需」によって、一息ついた業界も冬場にはその反動を「モロ」に受け、各社とも「息も絶え絶え」という状態に陥りました。「特需」対応で増やしたボトルやサーバーがだぶつき、増やした生産量と人員を減らさなければならなくなったのです。
「水」の需要は毎年冬場に減少しますから、2011年の始まりは「不安を抱えて」のスタートとなりました。特に2月は、弊社でも記録的落ち込みを経験することとなりました。

そして、3月11日の「大震災」が起こりました。人々は自分自身の動揺を抑えるために、「水」を買い求め、「手元に置いておきたい」と望みました。多くの人がほとんど衝動的にものを買い漁り、「水」はその中心的な「品目」となったのです。そこに、福島原発の事故で放射能が飛散し、都内の水道水から「乳児」の基準値を超える量の放射能が検出されたという一報が入りました。また、追い打ちをかけるように、日本の飲料メーカーのキャップを一手に引き受けていたキャップメーカーが被災したことが伝わってきました。ペットボトルのメーカーも同様に被災し、資材面での供給に甚大な問題が生じていることも分かってきました。

1.人は水なしには生きていけません。
災害の発生は、いつでも私たちにその「事実」を、再認識させます。が、気候の変動という抜き差しならぬ現実と隣り合わせに生きている私たちにとって、災害は今後日常茶飯事的に起きていくこととなります。
これが、「水の世紀」の現実です。

2.今後起こる災害は、公共水道の弱点を露呈させる作用を伴います。
「源水の汚染」「溶ける水道管」「薬剤の投入」「トリハロメタン」など数々の問題を抱えた日本の水道が生き残ってきた理由は、それに代わるシステムがないからというのが真相です。その「水道水」に見える形での「危険性(=放射能)」が初めて公にされ「取水制限」が発動されました。環境の激変など新たな問題に対応する力を持っていない公共水道は、今後事ある毎にその弱点を晒し続けることになるでしょう。

3.放射能は生物や食物や水を通して、人体に蓄積されます。
放射能が漏れてしまえば、私たちは放射能と末永く付き合うしかありません。人間は漫画の「タートルズ」同様、放射能に対するミュータント化を避けて通ることはできません。とは言え、人間の適応能力は小さくありませんから、放射能にもそれなりに適応していくことでしょう。しかし、適応できない人も多く出ます。「赤ちゃん」はこれからの「生」を放射能と共に生きていかねばなりませんから、蓄積していく「放射能」を少しでも減らす努力は欠かせません。

4.公共水道に頼れない人や頼らない人が少しでも生じると、「ミネラルウォーター」はすぐに欠品騒ぎが生ずるほどの供給力しか持ち合わせていません。特に、「使い捨て」を前提とするペットボトルでは、資材の供給に支障が生じると供給そのものができなくなってしまうのです。その点で、ガロンボトルは容器を繰り返し使うことで、公共水道に代わる役割を果たすことができます。継続的な安定供給を図るという点では、ペットボトルには望みようのない利点を有しています。

5.天然の湧水、例えば「箱島湧水」は16年の歳月を経て地表に湧き出ます。この「タイムマシン」に乗って時間を旅してきたような「天然水」は、自然が総力を挙げて作り出した、「人知」を遥かに超えた「存在」です。ゆっくり時間をかけて「安心安全」を身にまとい湧出をつづける天然水は、人間界で何が起ころうとも、少なくとも「16年」間は、その直接的影響を受ける事はありません。そして、おそらく16年の歳月をかけることで、地中の微生物が「有害物質の無害化」をはたしてくれるに違いありません。(事の成否は、16年後に検証してみましょう。)

今回の大震災は天災です。しかし、津波被害の半分ほどは「人災」と呼べると、私は思います。歴史的に見ても、津波の被害を受けたことがない地域が被災したわけではありません。昔に起きた津波を教訓に集落ごと高台に移住した人々が居る中、その跡地に居を構えた人々も居ました。何度も津波を経験している地で、海にせり出すように住居が所狭しと立ち並んでいたのです。そこに、家を建てることを認可した行政責任を「想定以上だった」という言葉で済ませてしまうのなら、「まつりごと」など不要という他ありません。
そして、「原発事故」です。これは、誰がどう見ても「人災」です。その事故により、「水道水の安全神話」は吹き飛びました。しかし、ことが落ち着いてくると、「原発」も「水道」も「他に代わるものがない」の一言で片づけられてしまう「模様」です。

お陰で、「震災特需」の第一幕は、およそ1ヶ月間で終わりを告げることとなりました。これだけの要素を「てんこ盛り」にしたような「ミネラルウォーター特需」も、もう終了です。巷では、まだまだ「ミネラルウォーターの品薄状態」が続いているので、業者によっては「勘違い」をしている所もあるようですが、この間に受けた受注を真に受けていると「去年の猛暑特需のように」またその「反動」に泣かされることになるでしょう。衝動的な「買いだめ」と降って沸いた放射能による「赤ちゃん需要」も終わってしまえば一過性であり、供給が追いつけば平静さを取り戻すことに、業界の諸氏も気付く事なります。

ただ、今回明るみに出た行政の「頼りなさ」と、公共水道の「脆弱性」は、私たちが「忘れたい」と願ったとしても付いて回ることとなります。なぜなら、私たちの心に芽生えた「不信感」は、今後災害が発生するごとに喚起され続けることになるからです。
気がつけばもう4月も後半で、ゴールデンウィークも目前です。水需要で言えば、いよいよシーズンのスタートです。ミネラルウォーターは品薄状態を抱えたままで、暑い夏に突入していくことになります。
この夏の電力不足は既定の事実です。「クーラーの使用を控えよう」という国民的スローガンのもと、私たちは暑い夏を乗り越えねばなりません。去年の猛暑時同様に「こまめに水分を取りましょう!」という呼び掛けが繰り返されることでしょう。新たな災害が起こらなくとも、今回の災害による余波は「まだまだ続いているんだ」という認識を私たちは新たにすることとなります。
夏の渇水期に、河川を水源とする都市の水道水は「濃縮」されます。目には見えないその成分への「不信感」は、「水不足」により増幅されることでしょう。本当は、もっと前に私たちは「水道水」の代替を考えておくべきだったのです。それを「悔やむ」ほどの「水道水離れ」が起こると、私は予測します。

一方、私たちはこの間着々と群馬県内での「天然水道網構築」に向けた準備を実行に移してきました。その過程で「大震災」が起きたのですが、「それでも、このプランはこのまま推し進めていくのですか?」という問いに対して、「そうです」とお答えしてきました。「天然水道網」とは「読んで字の如し」、「天然水」を安定的に「安く」供給する「水道網」のことです。それが、文字通り「安く」供給されるなら、今の時代「誰がそれを拒むでしょうか?」「水道水」の代替となるものがあるなら、そして、それが「信頼のおけるものであれば」誰もそれを拒みはしません。私たちは、その普及を焦らず進めています。幸い、群馬の人は「のんびり」しています。しかし、ちょうどこれからは「水のシーズン」です。3ヶ月もすれば「普及」の結果をお知らせできるでしょう。

「ガロンボトルビジネスを始めたい」「製造をしたい」という人や企業からの問い合わせを多くいただいています。しかし、「天然水」の製造は、「泥縄」式に考えてできるものではありません。まして、その販売ともなれば、単独でやろうとしてもできるものではありません。多くの人の協力を得て、その人たちと共に「輪」が形作れなければ、すべては「絵に描いた餅」で終わってしまいます。

ただ、今回の「大震災」を契機に、日本は紛れもなく「水の世紀」に突入しました。その中で、今の水道システムでは、あるいはペットボトルでは供給しきれない、「天然水」需要の高まりが生じています。その需要に「誰が応えるのか?」まずは「作る」人が居なければ、始まりません。圧倒的な「供給力不足」を前に皆が躊躇していては「穴」を埋めることはできません。誰かが「製造」を始め「供給力」を高めないと、電力同様「需要」に応えることはできないのです。

「水の世紀」とは、私たち人類が営々と築いてきた歴史と文明が、地球の持つ重厚壮大な時間に「受け入れてもらえるのか?あるいは拒絶されてしまうのか?」ということが問われる「世紀」です。いつの間にか、とても短い時間でしか物事を考えられない生き物と化した私たちは、「明日」に怯えるようにして暮らしています。それは、「水の惑星」に生を受け、「水をすべての源」と考えた人類が、昔日の「自分自身」を見失ってしまっていることに対する「応報」に他なりません。
「天然水」を極当たり前に飲んでいた私たちと、そうでない私たち。「天然水」を飲まないこと、飲めないことに違和感すら感じなくなった私たち。自然から「隔絶」された生活を送る私たちには、「自然の脅威」を受け止める感性は最早ありません。かつて、私たちは「自然と共生」していました。その時、私たちは「再生可能」な「営み」を「至上」と強く意識して暮らしていました。今の私たちに、その時の「謙虚」さは求むべくもありません。
その私たちにとって、「水の世紀」は過酷なものとなるに違いありません。


ー「我こそは思う方」に、このガロンボトルビジネス2011を捧げます。





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