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ガロンボトルビジネス最前線 【その4】
2006年 概念の明確化・・そして実現、「国産・洗浄充填機」と「地産地消」・・・


【水事業-1】

人は、水なしでは生きていけない。
太古の昔から、人は水辺に生活の場を設け、文明を育み始めている。それは、狩猟の生活から、農業を生活手段として定住していく過程において、人間が最も必要としたものが、水だったからだ。水は人々の渇きを癒すだけでなく、作物や家畜の生育になくてはならない。故に、文明は大河のほとりを起源とした。そして、人々は、水こそはすべての源であると考え、水を神として崇めた。水は権力のシンボルとしての役割を担うことも多く、治山治水は時の権力の重要なテーマだった。水利権が争いの種になることもしばしばで、灌漑用水が整うまで、人々は真顔で雨乞いをして、そのために生け贄さえ捧げた。
21世紀を<水の世紀>と名付けた人がいる。これからの水の重要性を暗示する象徴的なネーミングだ。現代は、穀物や家畜を育てるために必要な水と、地球の総人口と、それらを賄いきるために必要な真水の絶対量のすべてが数値化されている。そのため、食料を増産しようとしても、また、これ以上世界の人口が増加しても、たちまち水の枯渇は現実化するというジレンマが待ち受けている。いずれ早い時期に、真水の必要量が総量を上回ってしまうことが、明白にシミュレーションされてしまっているのだ。
<水の世紀>とは、言葉が発する清らかなイメージを意味するものではない。人類がエネルギーを求めて争うが如く、水を求めて戦争をしかけない状況になるだろうという暗澹たる未来を示す言葉だ。

私が、事業をはじめたいきさつは先に触れた。田舎には、東京ではお目にかかれない、たくさんのよい物がある。だが、どれも自然との関わりの深いものだけに、量的に都会の人を満足させられるものはない。但し、良質の天然水は豊富にある。瑞穂の国と自らを呼ぶ日本は、山国の上に、地層的に軟水を生む条件を備え、おいしい天然水の宝庫である。都会の水源は、多くの場合汚染された川のため、もとがおいしい天然水でも、途中でとんでもないものに変質してしまう。私たちは、その汚水を、また濾して殺菌剤を加え飲用としているが、これは文化的な人間がすることではない。だが、日本の大都市は、まるで自分たちが汚した水に対する耐性を計る人体実験場と化してしまっている。

水は高いところから低いところに流れる。水は山から湧き出て、平地にある大都会を通り、海に流れ込む。その途中の川の汚染がなければ、都会の人たちは今でも、おいしい天然水にありつける。ならば、飲料水専用のステンレス配菅を、山と都会の間に埋設すればよかろう。高低差を利用すれば、ポンプがなくとも、天然水は都会まできれいなままで行き着く。昔の川のように。私たちの体の60〜70%は水だというのに、それを殺菌剤抜きには腐ってしまうようなもので賄うなど、もっての外ではないのか。もしも、文化という概念が存在するならば、昔の人がすべての源と名付けたものを守り通す考えくらい、継承されていてもいいはずではないか。古今東西、水の重要性に増減などない。太古の昔にも、21世紀にも必要不可欠なものであれば、それを軽んじてしまう現在は、私たちの心に問題が生じていると見るべきだろう。清水で体を潤さずに、変な水を接種するから、人は薬漬けの頭を持つに到ってしまっている。

政治が、人々の健康と社会の健全性にもっと力を発揮してもよいと、常々思う。無駄な道路を作り続けることよりも、天然水道を整備するという夢のある話しを考える頭があってもよいのではないか?と。ニューディール政策ではないが、やり方によっては公共事業も社会を活性化させる方策になる。上述したように、真水の総量は決まっている。その大切な資源を一旦汚染に晒してから、かろうじて飲めるように手をかける。その手間と経費は、究極の無駄としか言いようがない。手間と経費をかけたものが、洗濯やそうじや散水にも使われて、下水に直行する。一方で、供給される飲料水といえば、残留農薬やトリハロメタンや殺菌剤入りの代物だ。
たしかに、飲料水専用配菅は投資としては安くない。だが、その必要性を金額の問題で論じるべきではない。まして、一度作ってしまえば、ランニングコストは知れているのだから、これぞ税金の使いどころではないのかと、私は考える。
しかし、そんな夢想をすることよりも、現実的な供給をまず果たすことが重要だと、考え直した。水は飲み比べれば、その違いが明白に分かる。比べるものがなければ、比較対照ができないし、一種類だけを与えられれば、選択のしようがない。だが、飲み比べれば、味覚以上の差異を実感できるはずだ。その違いの認識がなければ、誰も天然水道の必要性に言及することはない。
ミネラルウォーターを川や天然水道の代わりになって、消費者に届ける。もしも、それがビジネスとして成り立つなら、将来的に天然水道を実現化しようという機運が盛り上がる可能性もでてくるはずだ。
・・・・・・そう思い、私はミネラルウォーターの製造販売をはじめた。


【水事業-2】

私の考える水事業は、前述のように天然水道が基本にある。そのため、飲用だけでなく、料理を含めた身体に入れるすべての水をカバーできるものでなければならない。また、水道と名付ける以上、買い物に行かなければ得られないようなものでは、名前にそぐわない。そこで、天然水を大型容器に詰め、宅配するという基本線は直ぐに決まった。今から、18年前のことである。
ミネラルウォーターの第二次ブームのはしりの時期ではあったが、周りを見回しても、大型容器での宅配をしている人も企業も皆無だった。だが、人は社会的な動物で、必要は発明の母である。自分たちが考えていることが多少独創的に思えても、そこに人が感じる必要性が介在する限りにおいて、同じような発想は既に必ずどこかにある。調べてみると、海外旅行中にホテルで見かけた透明なボトルが、自分たちが考えていたものそのものだった。そして、日本でも、一社だけだったが、すでに先行している会社もあった。
もう一つの課題だった天然水であること。水処理の中で一番源水の持ち味を損なわない方法である除菌濾過を、私たちに伝授してくれたのは、北里大学環境科学センターの奥田舜治先生だった。源水についても、水博士であり、以前多摩浄水長をつとめた小島貞男さんからお墨付きを得て、私たちの水事業はスタートを切ることとなった。ボトルやキャップやサーバー、そして洗浄充填機の輸入などはすべて自力で行った。だが、ミネラルウォーターの製造に関しては、できるだけ専門家の知識を求めた。自分たちの発想は守り通すにせよ、先行している人達の知識や経験に勝ものはない。やがて、自分たちがそれを超えて行かなければならないにせよ、それには多くの時間がいる。専門家の人達が極めた世界をどのように取り込んで、自分たちの基本線を実現していくか?これぞ、事業の醍醐味だといえる。

アメリカにI.B.W.A.(インターナショナル・ボトルド・ウォーター・アソシエーション)という組織があり、毎年展示会を催している。アメリカにおいて、大型容器での飲料水の宅配には歴史があり、100年以上前から、馬車でガラスの大型容器に詰めた水を売り歩く水屋さんがいた。そのため、アメリカでは現代でも大型容器での宅配業が、ミネラルウォーター市場の中心的存在となっている。私たちは、それをアメリカの展示会で目の当たりにした。
よい源水を得て、よい水処理法を学び、100年以上の歴史に支えられたスタイルを取り入れた。日本の水道水の水質の劣化も、テレビをはじめとするマスメディアで取り上げられ、ミネラルウォーター市場に追い風となった。元々の市場規模が小さかったことが主因だが、不況下でもミネラルウォーター市場だけは着実な伸びを記録した。大企業が進出しづらい製造直販という土俵は、消費者との直接的な取引という点において、中小企業にも活路を残していた。また、日本的な宅配網の利便性を活用できたことも大きかった。

とは言え、日本の消費者の支持を受けることは一筋縄ではいかない。誰も馴染みの薄いものを、いきなり生活の中核に置こうとはしないのは、当たり前の反応だ。日本は良質の天然水に恵まれているという事実も、ミネラルウォーター普及の足枷となった。そして、そんな日本的な土壌を背景に変わった商品が登場してきた。それは、逆浸透膜で水道水を濾して、大型容器に詰めて届けるというビジネスだ。このビジネスが台頭してきた背景には、大きく分けて二つの要素がある。
一つ目の要素としては、日本ではミネラルウォーターに先駆け、浄水器の普及が先行していたことが挙げられる。水処の日本では、水にお金をかけるという発想は、馴染みがなかった。とは言え、まずい上にカビ臭までする水道水を、そのまま飲み続けることにも抵抗がある。そこで、おいしさと安全性を謳い文句とした浄水器は、ブームとなった。浄水器を通した水道水がおいしくなる理由は、水道水に含まれる殺菌剤の塩素を活性炭が取り除くからである。それが、浄水器の働きそのものだが、フィルターの膜は水道水に含まれる不純物も捕らえ、フィルター表面に貯め込む。そのため、フィルターの交換時期を逃すと、浄水器は雑菌の繁殖基地と化してしまう。浄水器は水道水の雑菌を押さえるために投じられた塩素を取り除くことによって、水道水を多少おいしくさせた。だが、そのことによって安全性を売り物にできないという矛盾を併せ持つこととなった。

逆浸透膜は、その浄水器が果たせなかった安全性の切り札的な存在として登場してきた。こちらは、おいしさには言及しない。あくまで、安全性を売りとする。もともとはNASAが開発した下水処理機だ。宇宙に旅立つ時、ロケット内に搭載できる真水の量は限定されてしまう。そこで、限られた空間で水を繰り返しリサイクルするために考案された優れものだ。そのため、逆浸透膜は限られた条件下で利用するならば、その持ち味を発揮する。だが、私たちが日常暮らすオープンスペースでそれを利用する必然性はない。お金を払って飲む水ならば、私たちには、もっと賢明な選択肢がいくらでもあるからだ。
但し、売る側の観点に立てば、これ以上安直で利益が見込める商品はない。都会に住む消費者をターゲットと考えれば、都会の片隅に工場を建てれば、輸送コストを省ける。元は水道水でよいのだから、どこに工場を建てようが、原水に事欠くことはない。また原水の質に関係なく同じ商品を作り出せるというメリットもある。そのため、一部スーパーなどでは無料で料理水として提供している所まである。一方でただのものが、いつまでお金をいただける価値を保てるのか?それは、消費者次第という心許なさがつきまとう商品である。

二つ目の要素としては、ミネラルウォーター市場の寡占化が挙げられる。私たちは、否応もなく<水の世紀>の住人で、そこから抜け出る術はない。そこで、質の良い水を求める欲求は、今後ともその加速度を緩めることはない。今までにも、それをビジネスチャンスと捉えた多くの企業が、ミネラルウォーター市場への参戦を試みてきた。だが、大企業による市場の寡占化の壁は厚く、多くの参入者は撤退の憂き目をみてきた。大量生産を前提としたペットボトルのミネラルウォーターに関しては、容器代・販売ルート・宣伝費等で、中小に勝ち目は全くないと言っても過言ではない状況ができあがってしまっている。だが、大型容器による製造直販という土俵では、企業の大小は絶対的な要素ではない。お客様と個別な信頼関係を作っていかなければならないという点では、どの企業にとっても出発点は同じだからだ。そして、私たちのような小さな企業がコツコツと、それを実績として積み上げてきた。そこに、水は儲かると目論んだ中企業が目を付けた。大企業の牙城を崩すことは難しいが、小企業が実績を積める場であれば勝負はできるという計算が彼らにあったのだろう。だが、まだその初期ということもあるからだろうが、彼らのビジネスは計算ばかりが先行している。知識や誠意よりも、「こうすれば、儲からないわけがない」という考えで机上の計算を実施に移す。フランチャイズ方式で全国展開を目指すビジネスでは、
なぜか例外なく逆浸透膜処理水が採用されている。利益を本部に集中させるそのビジネスは、もともと水商売を志す人や企業を対象とするもので、末端の消費者向けのものではない。そして、本部は、安直で知識不足という欠点を、安全性という一言で圧倒しようという試みを繰り返している。

日本の消費者が、ミネラルウォーターに求めるものは、おいしさである。ヨーロッパは「薬用効果」、アメリカは「安全性」、それに対して、日本は「おいしさ」をミネラルウォーターに求めている。それは、良質な天然水に恵まれ、それを食を含む文化に反映させてきた日本の歴史に根ざしている。「六甲のおいしい水」は、カレーをおいしく食べる水として、それまで煮沸一辺倒だったミネラルウォーターの水処理に精密濾過を取り入れた。それが、日本の消費者に水のおいしさを思い出させた。長らく、煮沸処理を曲げようとしなかった老舗サントリーも、自らが行ってきたミネラルウォーターの市場調査の結果を経て、近年精密濾過への切り替えを敢行した。天然水の持ち味を活かすという観点に立てば、ヨーロッパのような無殺菌を除けば、精密濾過に勝ものはない。弊社も創業時より精密濾過で水処理を行っていることは、前述した通りである。


【水事業-3】

事業において必要なことは、向上心だ。商品をよりよいものにしていく不断の努力であり、そのために知識を積み上げていくことだ。そして、そのモチベーションが保てる限り、事業は必ず安定期を迎えることができる。大事なことは、その時期にも初心を忘れず、貫くことだ。私の場合、天然水道という夢が事業を始める時の初心にあった。それをどう現実化させていくかという点で、私は共に水事業をはじめた仲間と袂を分かつことになった。事業が軌道に乗り出すと、それぞれの思惑の違いは明確になり始める。私の場合、私たちの得た知識や情報を広く公開することで、後発の人達に道を開くことを主張した。それが、天然水道を現実化させる道筋のために必要だと考えたからだ。だが、一緒にはじめた仲間は、自分たちがお金を投じて得てきた情報を公開することは、不要な競争に自分たちをさらすことになると考えた。

天然水の宝庫が、日本各地にある。都会の淀んだ川の流れを遡ると、やがて緑豊かな景色が現れ、徐々に川が澄んでいく。そして、澄み切った天然水がこんこんと湧き出る水源地に行き着く。その名水毎に水工場ができ、下流の都市に天然水を供給する。それができれば、天然水のコストは市販のミネラルウォーターを圧倒できる。
日本では、ミネラルウォーターの概念が明確にされていない。ヨーロッパでは、ミネラルウォーターは薬用効果に近いものを求められ、故に人間の手を加えない無殺菌が主流だ。ミネラルウォーターが含む生菌を、乳酸菌と同様に捉えている。もとより、人間は古来より天然の水をそのまま飲んできた。水の汚染を防ぎ、自然の水を飲むことが人間にとって一番良いに違いないという信念が、彼らにはある。私たちが殺菌水を飲み始めたのは、つい最近で、日本にはアメリカを通して、塩素を加える急速濾過法が伝えられた。法律の持つ無意味さの典型とも言えるが、もともと天然水の宝庫である日本の田舎でも塩素は一律に加えられる。日本の水は、おいしい。故に日本でミネラルウォーターに求められるのは、おいしさである。自分たちのDNAに記憶された水の天然・自然のおいしさを、日本人は求めている。だが、一方でミネラルウォーターの概念がはっきりしていないために、水道水を逆浸透膜で濾したものが大型容器に詰められて宅配されている。水は儲かると参入してきた中規模企業によって、法律上ミネラルウォーターと名乗ってはいけないものが、ミネラルウォーターであるかのようにして売られている。だが、そのボトルドウォーターが全国展開を果たすにつれ、大型容器による宅配が脚光を浴びてきたという側面がある。この流れに対し、名水の地で地元企業がおいしい天然水を掲げて迎え撃つ。その態勢さえ整えば、天然水道ビジネスは消費者の支持を掴むことになるだろう。

その態勢を整えるために私が考えている戦略が、大型容器に関連するものを、すべて国産化するというプロジェクトだ。私たちが、このビジネスを始めた時、すべてのものは輸入に頼らざるを得なかった。だが、今ではボトルもキャップも国産化されている。弊社でもボトルの型を起こして、オリジナル3ガロンボトルを有している。これが、輸入ボトルよりも安く使えるご時世になった。また、コンパクト洗浄充填機も自社開発した。アメリカの洗浄充填機に頼っている限り、機械の故障というリスクから逃れられないし、今のところ自力で輸入するしか方策は無いに等しい。また、オゾン殺菌を前提に作られているアメリカ製の機械では、洗浄殺菌能力が低く、それが製品であるミネラルウォーターの品質に少なからぬ影響を及ぼしてしまう。勿論人力を要して補うことができるが、そのコツを得るまでには時間がかかってしまう。そこで、機械的に能力が高く、故障時の心配をせずにすむ国産洗浄充填機は、この業界の発展には不可欠なものとなった。

私たちの開発した洗浄充填機は、廉価であることに徹した。それは、天然水道の担い手が大金を投ずることなく、事業を始められるような環境を整備するためだ。同時に、私たちは、弊社工場を研修場として提供する。研修生は、名水の地元でミネラルウォーターの製造直販を志す人や、田舎に移住しようと考えている人、他にこの事業に関心のある人たちとするが、特に条件はない。研修料は無料だが、その代わり、手取り足取り教えるわけではない。だが、学びたいことがあれば、すべてをオープンに学べる。この事業は、多くの成功できる要素を持ち合わせているが、何事も結局は本人しだいだ。自分で、その適性をはかってもらうのが、研修場の役割だ。そして、自分で決心がつくようなら、始めればいい。製造関連だけでなく、営業や受発注や荷造りや伝票発行に至るまで、学べることは多いと確信する。もしも、それでへこたれるようならば、やめたほうがいい。自分で面倒を背負い込む覚悟がないうちに事業を始めてしまえば、その後は誰も助けてはくれない。自分で始めてしまえば、いかなることも自分で責任を負う他ない。だが、始める前なら、誰にも迷惑はかからないのだから、自分で適正を感じられない場合は、潔く断念するに限る。

設備投資に巨額なお金が必要であれば、それは価格に反映させざるを得ない。だが、それが安く納まれば、事業を軌道に乗せるまでの時間を稼ぐことができる。ボトルもキャップも輸入ものよりも安く手軽に手に入る。コンテナ単位で必要以上に買わされることもない。
牛乳瓶のように繰り返し使う容器の利点は、価格に反映される。水は、食文化と密接なつながりを持っている。飲み慣れたふるさとの水が一番おいしいと感じるのは、至極当たり前のことだ。そこで、天然水に関しても、地産地消で輸送にかける経費を絞り込む。それができれば、このビジネスの優位性は突出したものとなるだろう。

「水の世紀」にますます必要性を増していく、この天然水ガロンボトルビジネスを各地で支えることのできる人と企業を広く求める次第である。


完  (2006年10月1日)

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